昭和46年08月19日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせる事はあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨すてであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
此方金光大神が祈られるところ、それは天地金乃神と一心。天地の親神様は又同根とまでおっしゃっておられます。そういう生神金光大神の御教えを頂けれる、聴いて帰れる、片便ではない。こちらが願った事に対して、その返事を頂いて帰れる。何と有難い信心ではないかと言う事だと思うのである。それでも一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃと。これはここんところを、過去従来の信心、木立に向かってでもよい、石の祠でもよい一心不乱に御願いをすると、拝むという信心ですね。
いわゆる拝み信心それでもね、おかげが受けられるのは、石の祠でもなからなければその木立でもないのである。それは一心を立てるからわが心に神がござるから、おかげになるのである。金光様の御信心の違う所はそう言う風に、はっきり教えておられます訳です。助けて下さいお願いしますだけで、例えば一心をたてれば奇跡も起こるというけど金光大神の教えは、神が物を言うて下さる。おかげを頂きたいと願う、それに対してそのおかげの受けられる心の状態を作れよと教えて下さる訳です。
それが物を言うて、聞かせるとはその事だと思います。御理解四節の最後の所に、まさかの時には天地金乃神様というに及ばぬ、金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。これなんかは私は、和賀心の一心が奇跡を呼ぶ程しのおかげになる。それに類したおかげだと思いますね。もうまさかの時ですから一心が出る。それに勿論金光大神のお名を称えさせて貰うのですから、金光大神特別の取次ぎの働きが、そこから生まれて来る事も勿論ですけれども、一心を立てるからおかげになるのじゃという。
そう言う所も私は、やはりあると思うのである。私共が助けて下さいと願う、お徳を頂きたいと思う、それなればおかげの頂けれる状態を作らなければいけんのです。この事は御無礼な事は、わかっとるけれども御詫びをしてる、そういう信心が何日まで続いたってですね、本当のおかげの受けものになるはずはありません。それじゃ徳の受けものになるはずはありません。
自分が分っているのだから、こんな事をしょったんじゃおかげにならんと自分でも分っているのですから、そこんところを教祖は噛んで含めるように、物言うて下さる。神は物言うて下さる。それが神の御教えである。御理解である。こうして皆さんに聞いて頂くのも、いうなら神が物いうて下さる事なのです。だからそこを一心に頂かずしておかげが頂けるはずがない。又は、お徳が受けられるはずがない。昨日ある修行生の方がここにやって参りましてから、こんなお届けをする。
まいろいろお届けをした後に、親先生最近タバコをあちらこちらから頂きますとまあ、自分の心の中に許されよるという感じがするのじゃないでしょうか。だからタバコ頂いても良いでしょかとこう言う。それは金光様の信心しよれば、タバコ飲めんとか、先生になりゃタバコ飲まれんといったようなきまりはありません。だからさあ飲んで良かどころじゃなかばってん、飲みよう頂きようがあるねといって話した事でした。折角タバコ頂くならね、うちの若先生が頂くような頂き方をしなさいと私が。
タバコというのはやはり、四神様にある先生がタバコ飲む事をお届けした、そしたら良いとも悪いとも仰らなかった。タバコはな忘れな草というて仰ったそうです。いわゆる気が紛れる。タバコ飲むと、場合には落ちつく事がある。場合には気分が良い、爽快。又手持ち無沙汰の時には、成程タバコもよいものであるけれども、これは体に少しも薬になると言う事はない。害はあってもそれは私達でも随分飲んで、もう一缶、私が北京時代なんか五十本では足りませんでした。
もう手は真っ黄色になってしまって、だから私自身が若い時から頂いてきてるのですから、あんただけ頂いちゃならんとはいえんのです。けれども福岡の三代吉木辰次郎先生はお話の中にいつもおっしゃっとった、若い時からね、やはりお道の教師を志された。タバコ飲むようでは人は助からんと思うて、飲もうとも思わなかったというておられます。だからタバコはと悪いじゃないけれども、まあいうならば贅沢だと、又タバコどもスパスパふかしとってと言う様に取次者が暇の事ではつまらん。
それこそ一服する暇もない程しのおかげ頂かにゃならん。家の子供達も勝彦も頂きゃ、光昭も頂く。注意せんではなかった。大徳を受けられた先生なんてのは、タバコをのまれたって聞いた事がない。久留米の初代も、私は存じ上げとるけど、タバコを吸うとっなさった事を見た事がない。甘木だってそうだったようである。桂先生も矢張りタバコは召し上がらなかったようである。
まあ九州で大徳を受けられたという先生方でもそうである。してみると子供たちがタバコをのむ時に総いう事を申しましたけれどもやはり頂いた。まあだからいつかはね何か本気で神様に縋らんならん、自分の好きなものをはずしてからでも、お縋りせねばならんといった時に、自ずと修行させて貰う事になるだろうと、それもやはり若い時だから、ダバコのむ気分もよい、それは良い事は良い。
私共もそうである。ベレ-帽どもかぶって、ステッキどもついておるときには、それこそバスを待っとる間でも、こうスパスパやっておるときは気分の良いものです。又一寸恰好よいですね。実に気分も良いです。ところが私はタバコを吸うている時分から思った事ですけど、あの時分は親教会に日参りしとりました。バスを待っておる時、紋付袴をはいてる時、タバコどん出して吸おうなんて、やはりスパスパやりにくいですね。だから私は申しました。だから頂いてもよいから、その節度を作ったらよかろう。
例えば紋付袴をつけてる時は頂きませんとか、それから御用させて頂いとる時はくわえタバコで御用するような事はいたしませんとか、同時にこれだけはもう一つ覚えときなさいというて話した事でした。決して貰いタバコをしなさんな。もうこげん汚かもんななか。タバコのむ人はいやしいもので、忘れるとあれはその、やる方だって、貰う方だって、あんまり気にしませんものね。けれどもそれが度重なると、この奴は汚ならしい奴じゃと必ず思うです。
自分は第一、ケ-スの中にタバコは入れてきとらん。そして一本くれと、そしてもう一本ケ-スに入れて行く奴がおる。私どんが中にそげなとがおったです。もうあいつがおる時にはタバコのむなと皆が言いよりました。必ずケ-スだけは持っとる。そしてマッチだけは持っとる。火だけはつけてやる、こうやってそしてタバコは向こうのを貰う。一本貰うだけじゃなくて、二,三本ケ-スの中に入れとる もう絶対タバコは買わん主義らしい。そんなタバコのみ汚いことです汚い。
同時にタバコという奴は、ほんなもう手が濡れるとこまて、アツッというところまで吸うとがおる。だからこげなのみ方はしなさんなよと、それはもううちの若先生を見なさい。しかもねタバコのむのは気分で頂くのだから、安かタバコどものみなさんな。安かタバコをケ-スの中に入れてから、半分に切ってからのむ人がある 如何にも始末倹約しとるごとあるが絶対そげな事じゃない。そげな事で気分がよかじゃろかと私は思う。そげな事では恰好も悪か。
それこそせめてピ-スならピ-スをうちの勝彦は半分か三分の一位しかのまんです。恰好いいです仲々。サッサッとこうやって消しよる。まだこげん勿体なかごとある。けれどもタバコをのんだからといっで腹太るわけではないですからね、害する方だからかえっておかげ頂きよるとう思う。これはタバコだけは始末倹約にならん。もうそれこそ拾うてからでものもうごとなるですよ。タバコという奴は。
どうぞというて出された時には、仕方ないけれど、おいタバコを一本くれと言った様なのみ方はしませんと言う様な所からね、タバコのお許しを頂いたらどうじゃろうかというて話した。これはどう言う事か、ここで例えば二食主義を続けておるのも、修行生も一緒に布教に出たら、それこそ一人の信者も参って来んという日が続く事だろう。それこそ一升の米を何十日で頂かんならんという事があるかもしれん。
その時にですお粥を頂く事を覚え、二食でことたる事を覚えさせて頂かんといけんから、そういう修行をしよるとぞという事なのである。タバコというものは、あれは中毒する。のみ出したら止められない。だからそのタバコを止めると言う事も非常にきつい修行になる。今日の御理解からいうと、あなた方は徳を受けなけりゃなるまいがと言う事です。 徳を受けなければ人が助からん。だから徳を受けなければならんという願いをもってここで修行しよるのだから、まあ、そこまでは話ませんでした。
まあのむがよい、まあ一つの枠を作っておいて、その範囲内で節度をもってタバコを頂くという事をなさいという事を申しましたけど。本当に徳を受けたいと、タバコどものみよっちゃ人は助からんと、吉木先生はタバコの事だけはそれこそ、のもうとも思われなかったという。それはやはり、お徳の受けものをより立派にしていく事の為に、そういう精進をする事なのである。金光様の先生しよりゃタバコものめん、どうもされんと言う事ではない。けれども徳が受けたい。
まあそれが本当が嘘かわからない。私は笠岡の金光大神のお写真を御結界奉仕のお写真を見た事があるが、笠岡の金光大神はここのところにタバコ盆ば置いちゃるです 御結界に。だから金光大神といわれた方が、御結界で時々一服なさりよったんじゃろう。それでも金光大神の徳を受けられたのだから、あながちタバコのんでどうと言う事はないけれど、私共の先達であるところのお徳を受けられた。甘木の安武先生、石橋先生又は桂先生といったようなお方達、又福岡の私はよく存じませんけれども。
三代の吉木辰次郎先生が、人が助かる事の為に、私どんがタバコども吸いよった位の事じゃ人が助からんと思うたといわれるそこからです、それぞれ徳が受けよいように思う、そこのところがね、よいですか、神が物言いよるところですよ。その事だけじゃありません。様々の事があります。そげな事じゃおかげは受けられん、勿論そんな事では徳が受けられるはずはないと言う事を、ここではこういういき方にならせて頂いておかげを受けよう、お徳を受けなければ人間真実の幸せはない。
お徳を受けたい為には、こういう修行も教えさせて頂く事を、力を出しおしみしてはならんと教えられるという事は、神が物言うて下さるようなものである。だからそう言う事に馴らされなければならん。神様が生きてござる。神様を生かすも殺すも私共の心次第である。昨日、佐藤さんが前講で話しとったように、こちらに参りまして御神前に額ずかせて頂くと、それこそ生きた神様に向かっとる感じだと、こういう。初心忘るべからずと昔から言うてあります。
教祖様もおかげを受けはじめの事を忘れなければ、結構であると教えられた。今の佐藤さんにその今の気持ちを持ち続けられたら、必ず徳を得るでしょう。ここの長い廊下を通る事が感動だという。神様の御働きを隅々から感じとる。それは佐藤さんの心が神様へ向かう、修行の心が生きておるからであります。だから生きた神様をそこに感ずるのであります。こちらへ来る汽車の中で今から合楽に向かわして頂いておるが、合楽にあるものを本当に頂きたい。
そう思わせて頂いたら、何かしら百年位修行せなければおかげが受けられん様な感じがしたとこういう。そこで先生私は二十一日間こちらで、大祭の終わった二十一日に帰りたいという意向らしいその時にお届けした。ですからその百年間を割ますと一日が七年間に当たりますとこういう。一日が七年間そこでその一日間をです、七年間も修行させて頂いておる思いで取組たいと思いますという御届けをした。だからこの人は二十一日間で百年間の修行をしたおかげを頂いて帰る事になりますという意欲を持っておる。
そういう願いを立てておる。心がはずんで、生き生きとしておる。だから御広前のどこへいっても感動する。昨日草を刈りよってもでも、お道の御用させて頂きよっても有難い。まだ二十才位の若さでね、有難いてほんなごとじゃろうかと思うごとあるけれども、ほんなことでしょう。神様がお知らせまで下さるのだから。私は先日あの人が頂いております、平和な心と言った様な平和というのは一、八、十と頂いた「な」は大きく示すと頂いた。心というのは八の字を書いてまた。
八の字という字と書いて、それを心という字にした。和という字だけが頂いてなかったけど、こういうかっこうで頂いておるのを見せて頂くと、ははあ、これにも御理解があるなあと思うた。というのはその和という字をですね、えらい頑丈に頂いてる事です。もう頑丈に。それならもう楷書で頂いとるという事ではなく、押したっちゃ引いたっちゃもうくずれまいという頑丈な和の字を頂いとります。
ははぁ和という字はね、お道でいう和の心というのは、いわゆる不壞の心、壊れない心、どういう時でも、くずれない心、ははぁこう言う様な言葉の中にあったんだなあと、後で気がついた。和という字だけでは、こういうふうに頂いたと、和という字だけを書いて申しておりますのを見ると、それこそ頑丈な頑丈な和の心、これを佐藤修行生に神様は求められた。さあ今のこの気持ちをくずすなよと、むしろこれを育てて行くのが修行ぞというわけである。
それは大きく示して行く事の為に、私共はどうぞ助けて下さいと願う。おかげを頂きたいとも願う。本当に信心によってお徳を受けたいなあとも思う。それなら助けて下さいというならば、神様が助けよいような状態に私共はならなければいけないでしょう。おかげを頂きたいならば、おかげを受けられる、受けものというか状態を作らなければいけないでしょう。ましてや徳を受ける事に於いておやである。いやそれこそ人並みの信心じゃ人並のおかげなのだ。
人がにんべんならば、私は行にんべんと言う様にです、タバコどんのみよってはお徳を受けられんという私は、発心こそがです、お徳を受ける受けものになると思う。そういう心がです、なるほど天地が生きてござっても、心が死んどれば、もう死んだ天地も同じこと。心が生き生きとしておる、そこからなるほど天地は生きてござるなあと、ここの神様は生きてござるなあと佐藤さんが感じられるように、佐藤さんの心に生き生きとして神様が働きなさる。
この方が祈る所天地金乃神と一心。金光大神の祈られる所願う所は、天地の心をそのまま心としての御信心内容である。私共やはりそれでなければならぬ。いわゆる神様の心を心として、昨日でしたかね本心、本心の魂という本心、本心に虫を入らせなよというあの本心。その本心というのは、神様のその本心が分らなけれはならんと頂きましたですね。本心とは神様から私共が頂いた無垢のままの心を本心というのである。
そういう無垢な心におかげを頂かして頂く為はには、まず神様の本心がわからなければいけん。そこからです、神様の本心を本心とした、心を心とした私共の心の上に、日常生活の上におかげを頂いて行く事になる。だから天地金乃神と一心なりと言う所になってくる。天地と共にある働きがそこに受けられるのである。どこへ参っても片便で願い捨て、このような事をいうて聞かせて下さる神様がござらじゃった。
金光大神はそこのところを、私共取次者の口を通して、神がこのようにして物言うて下さるのだ。だからその頂いて帰ってはじめて,おかげの受けられる徳の受けものが段々、いわゆる水を洩らさぬ様になっていくわけであります。助けて下さいおかげ頂かして下さいというてもです、神の言う事を右から左にするような事では、おかげもやはり右から左になって行きましょう。
どうぞ。